
No.07 「1985年生まれの履歴書」スタイリスト 服部昌孝さん
BACK TO 1985|
イマに続く1985年の40のコト。
ファッション業界で活躍する、RAGTAGの創業年である1985年生まれの方にお話を聞く 「1985年生まれの履歴書」。今回はファッション誌やブランドビジュアルのクリエイション、ミュージシャンやタレント、映画のスタイリングなど幅広く活躍する、スタイリストの服部昌孝さん。スタイリストを志して現在に至るまでの意外な経歴、そして改めて生まれた年である1985年という時代のファッション観についてもお聞きします。

Profile
服部昌孝
1985年静岡県浜松市生まれ。
大学在学中にスタイリストのアシスタントになり、5年間の修行を経て2012年に独立。ファッション誌 カルチャー誌、ブランドのビジュアル制作で活躍し、ミュージシャンやタレントのスタイリングも多数手がける。2020年に制作プロダクションの服部プロ、2021年にロケーションバス会社の栄光丸を設立。2024年よりネペンテスと共同でディレクションを行うブランドSHIDEN(紫電)もスタート。
- Official site
- https://www.masatakahattori.com
index
スタイリスト 服部昌孝さん とは?

数々のファッション誌で活躍し、ブランドのビジュアルクリエイション、ランウェイショーのスタイリング、そして多くのミュージシャンやタレントからの指名も受けるスタイリストの服部昌孝さん。特にミュージシャンでは、あいみょんさん、RADWINPSの野田洋次郎さん、米津玄師さんなど、現代のアイコン的な方々のスタイリングでも知られています。
そしてスタイリスト業だけでなく、制作プロダクションの「服部プロ」、ロケーションバス会社「栄光丸」、オンラインショップ「プロショップ服部」の運営、2024年にスタートした「NEPENTHES(ネペンテス)」の新ブランド[SHIDEN(紫電)]の共同ディレクションなど、多岐にわたるパワフルなプロジェクトや活動でも注目されています。

服部さんは1985年静岡県浜松市生まれ。20代後半でスタイリストアシスタントから独立した経歴からすると、早くからファッションに目覚めていたのかと思いきや、意外にもそうではなかったそうです。
「高校くらいまでは、そこまでファッションには興味がなかったんです。もちろん“裏原宿憧れ世代”なので、ファッション誌は見ていたし、浜松には[ステューシー]の直営店もあったので、ストリートな感じの服は買ったりはしていました。でも部活のバスケに打ち込んでいて、将来は結構真面目に体育の教員か法律関係の仕事にするかみたいな感じで、東京の大学に進学するんです」
突如ファッションにのめり込んだ大学時代

服部さんは大学の法学部に進学するも、「授業は面白くない、友達もいない状態」で、アルバイトに打ち込むように。渋谷のキャンパスになって以降は、周辺のブランドのストアやセレクトショップ、古着屋などに出入りをするようになり、塾講師、飲食店のキッチンなどのアルバイトで貯めたお金で、次々と好きなブランドを買うようになったそうです。
「僕はファッション的には完全に“大学デビュー”ですよ。当時色んな店に行っていましたけど、特に好きだったのは[ミハラヤスヒロ ※現メゾンミハラヤスヒロ]の靴、ショップだと『時しらず(※ユナイテッドアローズによるセレクト業態。現在は閉店)』、『ナイチチ(※ 90年代から00年代にかけて存在感を放った伝説的セレクトショップ。2016年に閉店)』あたりですね。RAGTAGにも当時相当行きましたよ。あの頃は大きな二次流通のお店って、RAGTAGくらいしかなかったし、周りの大学生もみんな行っていた印象です」

突如としてファッションにのめり込んだ大学時代。しかし服部さんは、当時の自分を鋭く分析します。
「あの頃は好きなブランドを買っても、全然似合っていなかったというか、“服に着せられていた”と思います。あと当時はまだ服を“価値”としか見ていない部分があって、『コレ買っておくと数年後に高くなりますか?』みたいな、打算的な思考に近かったです。『このブランドを着てるからカッコいいでしょ』っていう」
センスを鍛えられたアシスタント時代

服部さんはそのファッション好きが昂じて、ついにスタイリストを目指し、在学中にスタイリストに弟子入り。学校と並行してアシスタントとしての活動を開始します。
「自分のファッションは、アシスタントになった瞬間からガッツリ鼻を折られました。師匠には着ている服を鼻で笑われ、先輩には『それ、流行ってるの?』嫌味を言われ、仕事で出会った人には初日から『お前、この仕事向いてないよ』とか、さんざんに言われました。時代もあったと思うんですけど、『ファッション業界って、性格悪いヤツしかいないの?』って内心思いましたね(笑)。でも自分の性格上、そういう状況にむしろ燃えるんで、『あの人たちに認めさせたい』という一心で、どんどん自分も変わっていきました」

スタイリストアシスタント時代は、アルバイトで服を買いまくっていた状況から一変、服部さんは一気に「お金がなくて服を満足に買えない状態」になったそうです。しかし、そこから服部さんは自分のアイデアで、スタイルを作るようになったと話します。
「それ以前に買っていた服を売りに行ってしのいだりもしたし、オール390円の古着屋にはよく通って掘り出し物を探しました。あとは店でも普通の人には売れないような5XLのTシャツとか、スーパービッグサイズのアイテムを買って、人と被らないスタイルを楽しんだりしていました」
“スタイリストの枠”を超えて

本人曰く、「勉強になったけど、暗黒時代だった」というスタイリストアシスタントを5年勤め、服部さんは2012年に独立を果たします。すぐにファッション誌、カルチャー誌などでメキメキと実力を発揮し、若手スタイリストの中では最注目の存在に。雑誌『THE NEW ORDER』、『EYESCREAM』ではスタイリスト個人、そしてクリエイターとして特集も組まれたことで、一気に認知も広まります。
特に服部さんは、服のスタイリングのみならず、撮影シチュエーションの構築など、ビジュアルディレクション全般が出来ることが編集者やブランド関係者の中でも評判になり、さらに活動の領域を広げます。その延長で、2020年には制作プロダクションの「服部プロ」を設立。スチール撮影のみならず、ムービーのディレクションまでこなすという、スタイリストの領域を超えて活躍する姿勢も評価され、[ヴァレンティノ]の世界で9人だけ選出される店頭VMDディレクターとして日本のキャンペーンに起用されるなど、その存在はグローバルからも認知されるようになりました。

「最近は“自分の使命”のように考えて、出来るだけ前に出ようと思っています。ファッションって、僕の世代やそれより上の世代では、確実に憧れの存在だったと思うけど、最近の若い人たちはあまり憧れを抱いていない気がするんです。僕が上の世代の人に憧れて、ファッションが面白くなったように、自分がそういう架け橋になれればいいなと。いっぱい恥もかいてきたし、傷ついてもきたけど(笑)、ファッションの未来を考えたら、そういうこと言ってる場合じゃない気がするんですよ」
最後に、服部さんが生まれた40年前、「1985年のファッション」についてお聞きしました。
「ちょうどいま取り掛かっている仕事がモロに1980年代がテーマなので、改めて昔の雑誌を見て勉強していますが、面白いし、“本物”があった時代だと思います。今みたいにコンプライアンス的なものもなかったので、スニーカーであってもしっかりレザーが使われているし、僕の好きなクルマでも何でも、作られたモノに“置き”がないというか、振り切っているんですよ。モノもそうだけど、そういうパワフルでスケールの大きい人が多かった時代なんだろうなと思います」
interview&text : 武井幸久(HIGHVISION)
photo : 石毛倫太郎