No.27 「あの人に聞く 1985年」 中曽根信一さんの場合

No.27 「あの人に聞く 1985年」 中曽根信一さんの場合

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イマに続く1985年の40のコト。

RAGTAG 40th

2025.12.22

1970年代後半から伝説のショップ「バックドロップ」で、古着やまだ日本に入っていなかったアメリカブランドの買い付けを始め、80年代後半からは自身のショップ「ラブラドール レトリバー」でも一世を風靡した、カリスマバイヤーで経営者の中曽根信一さん。日本の “アメカジ史” を語る上でも重要人物である中曽根さんに、RAGTAG創業年である「1985年」をテーマにお話をお聞きしました。

photo : TAWARA(magNese) / edit : Yukihisa Takei(HIGHVISION)

中曽根信一

Profile

中曽根信一

1957年 長野県生まれ。20歳の時に、伝説のショップ「バックドロップ」に入社し、古着やアメリカブランドのバイヤーとして活躍。1986年に退社し、1988年に自身のショップ「ラブラドール レトリバー」を立ち上げ、セレクトアイテムだけでなくオリジナルブランドでも大ヒット。同社を退社後、1996年に株式会社ニューイングランドを設立。2016年より[ラブラドール レトリバー]ブランドを再開。現在のショップでは、アパレルのほか、ドッグ関連のグッズも展開している。

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    アメカジ黎明期を知る証言者 中曽根さんが「勝手に思っていること」

    中曽根信一さん

    東京・原宿で、“犬と暮らすためのライフスタイルショップ”「ラブラドール レトリバー」と同名ブランドを運営する、株式会社ニューイングランド 代表の中曽根信一さんは、日本におけるアメカジ黎明期を知る最重要人物のひとりです。

     

    80年代から雑誌にもたびたび登場するなど、ファッション業界でも古くから知られていた方ですが、2024年より、自身のインスタグラムにおいて、改めて70年代後半から80年代当時のバイヤー経験の記憶を綴る「勝手に思っていること」のシリーズを公開し始めると徐々に話題となり、当時を知る世代から、新たな世代を巻き込んでの人気となっています。中曽根さんのインスタグラム・ブログの特徴は、今や証人も少なくなりつつあるアメカジ黎明期のことが、まさにバイヤー当事者の目線で書かれている貴重さ、そして非常に克明な記憶をもとに書かれているリアリティにあります。

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    「どうしてそんなにハッキリ覚えているの? とよく聞かれるんですが、僕は記憶が写真のように脳裏に刷り込まれている少し特殊なタイプのようで、良かったことも悪かったことも絵のように覚えているんです。記憶には自信もあるけど、それでもずいぶん昔の話だし、僕が最初にやったと思っていたことでも同じ時期に誰か似たようなことをしていたかもしれない。今と違ってネットもSNSもないから、その辺は分からないんですよね。だから『勝手に思っていること』と前置きをして、投稿しているんです(笑)」

    アメカジ古着を価値化した70年代後半

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    中曽根さんは1957年生まれ。1977年、20歳のときに東京・渋谷のショップ「バックドロップ」に入社し、ショップスタッフとしての活動を始めます。中曽根さんが「バックドロップ」に入った頃から、アメカジ古着を取り扱っていたそうですが、まだまだ世間の古着への認知は現在のようなものではなかったそうです。

     

    「その頃の古着は原宿でも “ゴミ同然” でしたね。雑誌でも古着を使ったコーディネートが出始めてはいたけど、店ではジーンズは売れてもGジャンは売れない。売れなかったのに、なぜか僕らはどんどん古着に走っていたんです。それまでは買い付けしたまま山積みで売られていたけど、ちゃんとファッションとして売りたいと思ったので、選別して、クリーニングして、修理までして売るようにすると、次第に雑誌でも特集が組まれたりして。特に一番インパクトが大きかったのが、1983年12月の『ポパイ』で、古着のディティールを特集した号じゃないかな。その頃から突然売れるようになりました」

    中曽根信一さん

     

    現在加熱状態にあるとも言えるヴィンテージ古着も、当時の世間ではただの「ユーズド品」。ヴィンテージジーンズやGジャンは今や高額で取引もされていますが、その頃まではデザインや年代の区分けすらないほどの無秩序状態だったそうです。現在ではひとつの指標にすらなっている、[リーバイス]の “XX(ダブルエックス)” も、よくよくレザーパッチを見ている中で違いに気づいたと中曽根さんは話します。

     

    「当時は誰も呼び方が分からないから、『エックスエックス』と呼んでいました。雑誌編集者にもその名称で伝えたので、当時の雑誌を見てもらえればそう書いてありますよ。その頃[リーバイス]のGジャンも色々と見ていると、ポケットの数が違ったりすることに気づきました。僕らは羽田に倉庫があって、買い付けた古着はそこに集めていたのですが、当時倉庫で働いていたのはジーンズなど分からない年配の方たちで、選別も難しい。だから僕が倉庫でイラストまで描いて、『ポケット1つは “ファースト”、ポケット2つは “セカンド” と呼んで区分けをしよう』と言い出して、雑誌に出すときもその名称を使うようにしたんです。まさかそれが世界的な共通言語になるとは思ってもいなかったですね(笑)」

     

    と、アメカジ愛好者なら悶絶しそうなエピソードをさらりと中曽根さんは話しますが、アメカジや古着文化黎明期の日本がいかに混沌としていて、エキサイティングなものだったかを物語っています。

    バイヤーとして本領を発揮した80年代

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    「バックドロップ」でアメカジ古着を販売していた中曽根さんが、初めてアメリカに買い付けに行ったのは1980年のこと。そこから中曽根さんは本格的にバイヤーとしての本領を発揮します。

     

    「今ではヒップな場所になっているけど、当時は危なくて夜も出歩けないようなエリアに部屋を借りて、そこを拠点にしていました。当時アメリカに滞在できるのは、ビザの関係で45日間だったんですよ。だから45日はアメリカにいて買い付け、日本で2週間経ったらまたアメリカに戻る。その繰り返しだから、いつもフラフラ(笑)。今のバイヤーさんは展示会とかに行って買い付けますけど、その頃のバイヤーはアメリカ中を飛び回って歩き回って、自分で面白そうなものを見つけてコンタクト先を探すところから始める仕事だったんです」

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    「バックドロップ」が火をつけたものは数多くありますが、その中でも象徴的なのが、現在でも人気の[AVIREX(アヴィレックス)]と[VANSON(バンソン)]のレザージャケット。これも中曽根さんたちの偶然の出会いからそのヒストリーは始まります。

     

    「あの頃すでに日本ではミリタリーのA2ジャケットが人気になり始めていたので、僕らもA2タイプを探し回ったんですけど、見つかったのはダサいリペアをされているユーズド品ばかりでした。そんな時にスタッフが週末のヴィンテージの飛行機ショーに行ったら、新品なのにすごくいい感じのA2を着ているヤツがいたんですよ。『それはどこのA2?』って声をかけたら、『オレたち兄弟が作っている』と。その会社に遊びに行ったら、それがたった3人の会社で作っていたブランド、[アヴィレックス]だったんです」

     

    その偶然の出会いからすぐに日本向けに発注して日本の「バックドロップ」で販売すると、[アヴィレックス]は飛ぶように売れますが、数回の取引をするうちに無断でディティールが変更されたものが届くようになり、やむなく取引は打ち切りに。そんな渦中に中曽根さんが見つけたのが、[バンソン]でした。

     

    「最初に店でカタログをもらった時は、サイジングしたバイク用のレザージャケットを作れるブランドという感じでしたが、ここにA2を作ってもらおうとコンタクトしてみると、『作れる』と。いざ出来上がってみると革のクオリティは申し分ないし、ここにA2ジャケットをオーダーしたのは間違いないと思いました。その後彼らが『ウチの本業はモーターサイクルジャケットだ』としつこく言うので、見せてもらったんですが、やはりバイク乗り用、しかもアメリカ人サイズなので、腕も裾も長くて日本人には合わないんです。だから『袖も裾も2インチ切ってよ』とお願いしてみたら、カッコいいものが出来た。今で言う“別注”なんでしょうけど、当時はそういう意識もなかったですね。そのジャケットに僕らが羽田の倉庫でワッペンを縫い付けて売ったら、爆発的な人気になって、それが渋谷センター街の “チーマー” と呼ばれるような人たちのアイコンになっていったんです」

    中曽根信一さん

     

    当時の「バックドロップ」は、雑誌でも頻繁に取り上げられるお店でしたが、レザーや古着を中心に少し不良感のあるアイテムが多めだったことから、一部では「入りにくい店」としても語られるようになり、より特別な存在になっていきます。

     

    「当時の僕らは、ただカッコいいものを追いかけていただけなんですが、のちのち『怖かった』とよく言われましたね(笑)。他にも渋谷には『ビームス』、『シップス』、『ナムスビー』など、いわゆる “渋カジ” と呼ばれるようなお店がたくさんありましたが、『バックドロップ』は他所よりも少しアウトローな雰囲気のものが多かったせいかもしれません」

     

    中曽根さんから見た1985年

    中曽根信一さん

    貴重にして特濃、まさに「お宝」なエピソード山盛りの中曽根さんですが、改めて「中曽根さんから見た1985年はどんな時期だったか」についてお聞きしました。

     

    「ちょうど日本中で洋服が売れ始めて、ファッションムーブメントも大きく変わった時期だったと思いますね。僕らはアメカジ、古着を追求していたけど、その時期は日本のDCブランドもブームで、その両面が同時多発的に盛り上がっていました。僕らは小さな会社だったから、大資本のDCブランドのショップが出来始めたのが嫌でね(笑)。そんな時期にRAGTAGさんみたいなお店が出来ていたってことは当時は知らなかったけど、相当センセーショナルだったと思いますよ」

     

    中曽根さんは1986年に「バックドロップ」を退社。その後1988年に自らのショップ「ラブラドール レトリバー」を立ち上げて、そこでもセレクトとオリジナルアイテムの両面で大ヒットを飛ばし続けます。

     

    「1985年に[ナイキ]の “エアジョーダン1” が発売されて、僕もその少し後に仕入れていますが、当時は全然売れていなかったですよ。今や最初から売れたように言われていますけど、1990年の自分のお店の写真を見返すと、棚の下に陳列されているし、最終的には催事のセールで出しても売れなかった記憶があります。でも、仕入れ続けて、その少し後にブームが来たから “一人勝ち” 出来たんですよね」

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    この “エアジョーダン1” にとどまらず、中曽根さんが大胆な買い付けでヒットを飛ばしたのは、同じ1985年リリースの[ニューバランス]“M1300” など、数知れず。中曽根さんに、その類まれな「目利き」はどこからやってきたものなのかを訊ねると、とてもシンプルな答えが返ってきました。

     

    「“運” もあるのかもしれないけど、当時みんな見ていた景色は同じだったと思うので、それに気づくかどうかだけなんじゃないかと思いますけどね。単純に僕は、自分でカッコいいと思う、好きなものしかやってこなかったんですよ」

     

    1985年に限らず、ここには到底収まらないエピソードが多数掲載されている中曽根さんのインスタグラムのブログは、70〜90年代ファッションに興味を持つ人は必見の内容です。

     

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