
No.02 「あの人に聞く 1985年」スタイリスト 大久保篤志さんの場合
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イマに続く1985年の40のコト。
どんな仕事でも、40年以上も“現役”であり続けることは簡単ではありません。
ましてや波も浮き沈みも激しいファッションの世界では本当にひと握りの方だけ。
その中でも、1980年代から2025年の現在に至るまで、現役スタイリストとして活躍を続けているのが大久保篤志さんです。
1985年当時既にトップスタイリストであった大久保さんに、改めて1985年を振り返っていただきました。
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自由な空気に溢れていた1985年

大久保さんは1955年北海道生まれ。文化服装学院を中退後、アパレルメーカーや雑誌『POPEYE(ポパイ)』編集部を経て、1981年に当時はファッション誌としても絶大な影響力を誇った『anan(アンアン)』の表紙スタイリングを担当したことを皮切りに、スタイリストとして独立されました。当時日本ではすでに女性のスタイリストは職業としても確立されていましたが、男性スタイリストはまだ珍しい時代でした。
「他にはあまりいなかったね。俺が師事した北村勝彦さん(※マガジンハウス(旧・平凡出版)専属で『POPEYE』(1976年)、『BRUTUS』(1980年)、『Olive』(1982年)、『Tarzan』(1986年)の創刊に携わった方)は “ファッションディレクター” だったし、スタイリストという肩書きの男性はあまりいなかったと思う。ただ、俺は自分の仕事で精一杯だったし、昔からあまり周りは見ないタイプなので、他にもいたのかもしれないけどね」
大久保さんは、若者のカルチャーを網羅的に紹介していた人気雑誌『宝島』の1985年6月号において大々的なロングインタビューも掲載されているので、当時既に男性スタイリストとしても際立った存在だったことが分かります。

『宝島』1985年6月号は「流行服通信」と題されたファッション特集号。この特集において、大久保さんのロングインタビューが複数ページにわたって掲載されています。
この誌面を見ると、既に芸能人やミュージシャンのスタイリングも手がけていることが語られていますが、もちろんファッション雑誌でも活躍。特に大久保さんは、1984年に流行通信社から創刊された『X-MEN(エックスメン)』というメンズファッション誌でのスタイリングが印象深いと話します。
「すごく自由にやらせてくれた雑誌だった。編集者から『こういうブランドを出してくれ』とか、そういう縛りみたいなのもなかったし。編集者やカメラマンも含めたスタッフが、『いいじゃん』っていうことを追求できたよね。今はなかなかそういうことはないだろうね」

大久保さんはその雑誌のエディトリアルページを手がけた際の確認用ポラロイドも大切に持っておられました。
当時から大久保さんは、まだ手に入りにくかった海外の雑誌、特にコンデナスト社(※『VOGUE(ヴォーグ)』、『GQ(ジーキュー)』などで知られるアメリカの名門出版社)が発行していたイタリアの雑誌『Per Lui(ペルルイ)』などを取り寄せて見ていたそうですが、参考にしていたのはビジュアル作りではなく、あくまでもスタイリングの細かな部分。
「海外の雑誌は単に『かっこいいなあ』と思って眺めていて、参考にしたのは小物使いとか、そういうところだったね。その雑誌のビジュアルをパクろうとか、そういうことはしなかった。一緒に仕事をしていたカメラマンたちも、そういうことはダサいと思っていたし、みんなでオリジナルを作るという気持ちだったよ。『X-MEN』のスタイリングではKENZO(ケンゾー)とか、タケ先生(菊地武夫)のMEN’S BIGI(メンズビギ)とか、DCブランドのものは使っていたと思う。当時イタリアブランドは簡単に手に入らなかったからね」
イタリアファッションに夢中だった80年代

様々なスタイルを変遷し、今も時代のファッションの先端を見続けている大久保さん。昨年にはWILLY CHAVARRIA(ウィリー・チャバリア)に夢中になり、取材日に着用されていたのもBODE(ボーディー)のジャケット。気になったブランドは自ら率先して購入し、自身のスタイルに取り入れている大久保さんは、自身の服では「好きなものがコロコロ変わる」と話します。
そんな大久保さんに、当時最も夢中になっていたファッションについて尋ねると、「イタリアのファッション」という答えが返ってきました。
「アメカジは当時そんなに勢いもなかったし、自分はアイビーファッションも好きじゃなかった。当時はイタリアものが好きで、イタリアものばかり着ていたね。ベーリー・ストックマン(※1974年創業の東京・外苑前のショップ)の金子(順持)さんに社員旅行に同行させてもらって、初めてミラノ、フィレンツェをこの目で見たときは衝撃を受けたよ。当時のGIORGIO ARMANI(ジョルジオ・アルマーニ)のショップは店員まで全員カッコいいし、ほんとやられたね。『なんでスーツなのにこんなにカッコいいんだろう』と思った。そのあたりから自分もタイドアップのスタイルを追求するようになって、仕事中もいつもネクタイをしているようになったんだ」
ところが当時はまだイタリアブランドは日本にそれほど入ってきておらず、スタイリングで使うのも一苦労。
「イタリアものを扱っているプレスルームもなかったし、アルマーニ系列のブランドを扱っている『バルバス』というショップで、買い取り前提で借りたりね。あとは『インターナショナル・ギャラリー・ビームス』でも少し扱っていたかな。あの頃は(後のユナイテッドアローズ創業者の)重松(理)さんがバイイングしていたから。当時のDCブランドの多くも、そういうイタリアもののスタイルにかなり影響を受けていたと思うよ」

大久保さんが所有する、1980年代のジョルジオ・アルマーニのジャケットとコート。
「その当時、イタリアものを着ていたのは一握りの人だったかもしれない」と大久保さんは振り返りますが、その後日本はバブル景気と共にイタリアファッションが席巻。大久保さんの目線は確かに時代の一歩先にあったようです。
“スタイルは変わっても、自分のやっていることはずっと変わらない”

その頃大久保さんは、1985-86AWシーズンの Y’s for men(ワイズフォーメン)のイメージカタログのスタイリングを手がけます。Y’s for menは日本を代表するコレクションブランドであるYohji yamamoto(ヨウジヤマモト)から1979年に発表されたメンズライン(2023-24AWコレクションより再始動)。
「そのイメージカタログで成功出来たというのは自分にとって大きいと思う。そこから3、4冊やらせてもらったし、“耀司さんのOKが出た”、というのは凄く自信になったんだよね。耀司さんの服は“(既成概念を)ぶっ壊す服”だったから、自分の中でイタリアもののスタイルは終わって、そこから90年代になっていった気がするね」
インタビューの最後に、大久保さんにとって1985年はどのような時代だったかをお聞きしました。
「あまり窮屈じゃない、自由な時代だったと思う。今もそうだけど、俺はあまり時代背景とか、周りがどうだったとか全然興味ないんだけど。自分ということに関して言えば、すごく遊んでいた時代だったし、ちょうど30歳過ぎて“自分が一番だ”と調子に乗り始めていた頃だよ(笑)。でも今から思えば全然勉強中だったし、恥ずかしいことも多いけどね。そういう時期があったから今もあるんだと思うけど。でも基本的にやっていることは昔から何も変わらないな。1981年に『anan』の表紙のスタイリングで、MARITHÉ FRANÇOIS GIRBAUD(マリテフランソワジルボー)※のチャイナクロスを使った時から変わっていないんだよ」
- ※ 1964年設立のパリのファッションブランド。90年代頃にかけて日本でも高い人気を誇っていたが2013年に一旦ブランドが停止。2025SSシーズンにSupreme(シュプリーム)がコラボレーションを発表。日本では2024年に株式会社yutoriが日本市場における販売特約店契約を締結し、日本再進出を果たしている。


当時雑誌『anan』の表紙で使ったMARITHÉ FRANÇOIS GIRBAUDのチャイナクロスのジャケット。
大久保さんはスタイリスト業も現役でこなしながら、2024年春夏シーズンからは友人たちと共に自身がディレクションを手がけるブランド LASTMAN(ラストマン)もスタート。このブランドは“8シーズンのみ“展開予定で、大久保さんはその後もまだまだ作りたいものがあるそうです。
「The Stylist Japan(ザ・スタイリスト・ジャパン)(※大久保さんが2006〜2024年まで手がけていたブランド)で、Dickies(ディッキーズ)のワークウェア素材でスーツを作ったのがウケたけど、今はまた違うのが作りたい。やっぱりまだ到達していないんだよ、自分が着たいスーツに」
大久保さんは現在70歳。スタイリストとしてだけでなく、ファッションの仕掛け人、そして自らファッションを楽しむ人としても、まだまだ活躍を続けることは間違いなさそうです。
大久保篤志
1955年北海道生まれ。上京し、文化服装学院を中退後、オンワード樫山、雑誌『POPEYE』編集部を経て、北村勝彦氏のアシスタントに。1981年にスタイリストとして独立し。その後、雑誌、広告やショー、著名人のスタイリングで活躍。馬場圭介、野口強などのトップスタイリストも輩出。2006年に自身のアパレルブランド The StylistJapan®(〜2024)、2024年からは8シーズン限定の新ブランド、LASTMANを設立。
https://www.instagram.com/okubomegane/
https://www.youtube.com/@okubomegane742
interview&text : Yukihisa Takei(HIGHVISION)
photo : TAWARA(magNese)