
No.18 「1985年の男性ファッション誌でタイムスリップ」by 増田海治郎(ファッションジャーナリスト)
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イマに続く1985年の40のコト。
Profile
増田海治郎
1972年生まれ。雑誌編集者、繊維業界紙記者を経て、ファッションジャーナリストとして独立。国内外のファッションショーを中心に、メンズのドレス系ファッション、古着、ビジネス関連など、幅広いジャンルを取材している。著書に『渋カジが、わたしを作った。』(講談社)がある。
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1985年の若者の多くはファッションを最優先にしていて、時給600円台の居酒屋やコンビニのバイトで貯めた資金を、ファッションに全ベットしていた。当時の雑誌を読み返してみると、その頃のファッションに対する熱狂みたいなものが伝わってきて、こんな時代もあったのだと感慨に耽ってしまう。今回は1985年の男性ファッション誌でタイプスリップしてみよう!
超絶美男子の阿部寛の表紙でスタートした “メンノン”

1985年の『MEN’S NON-NO』のプレ創刊号。名俳優のあまりの美男子っぷりに驚く。
現在も日本のメンズファッション誌を代表する存在として高い人気を誇る『MEN’S NON-NO(集英社)』。1986年5月に創刊し、すぐさまDCブランド・ブームを牽引する存在になった。その “メンノン” の1985年のプレ創刊号がこちらである。表紙は彗星のように現れた、現俳優の阿部寛。日本人離れした彫りの深い顔立ちと189cmの身長は、あまりにも特別だった。巻頭特集のタイトルは「PINKが着たい!」で、男子が着るピンクを特集。人気絶頂だった田原俊彦、シブがき隊らのアイドルをモデルに、新しい時代の男性像を感じさせるピンクルックを提案している。

当時人気絶頂だったジャニーズのアイドル、田原俊彦。ピンクを完璧に着こなしている。
とくに “トシちゃん” のスタイリングは圧巻。グレンチェックのジャケットのインナーにピンクのカーディガンを差し、同じピンクのニットを肩掛けするこの時代らしい着こなし、当時の人気ブランド[HAKKA(ハッカ)(※1)]の濃いピンクのコートをネイビーに合わせるスタイリングは、今見ても非常に完成度が高い。

1985年冬、東京の街はスタジャン姿の若者で溢れていた。左のブルーのスタジャンのモデルは俳優の風間トオルさん(※2)。
中面では爆発的に流行していたスタジャンを紹介したページも。[PINK HOUSE(ピンクハウス)]、[MEN’S BIGI(メンズビギ)]、[PAZZO(パッゾ)(※3)]ら、当時人気だったDCブランドのスタジャンが紹介されている。価格は3万円台から6万円台とまあまあなお値段。600〜700円台の時給でこれを買っていたのだから、当時の若者はエラい!
※1 HAKKA…1976年にスタート。1987年にスポーツテイストの「スーパーハッカ」が登場し、人気を集めた。現在もウィメンズアパレルを展開するほか、「Café Madu」などカフェ事業も手掛けている。
※2 風間トオルさん…1962年生まれの俳優。1980年代は雑誌「Fine」やメンズファッション誌でモデルを務め、一世を風靡した。
※3 PAZZO…1981年にスタートしたDCブランド。当時から一貫してリアルクローズを追求し続けている。
特集は30’s。“メンクラ” の文化度の高さに驚く。

1985年6月号の『MEN’S CLUB』。なんとこの時代に1930年代を特集している!
1954年に創刊した『MEN’S CLUB(ハースト婦人画報社)』は、世界で二番目に古いファッション誌だ。2024年に定期刊行を終了したものの、長らく日本の男性に向けて欧米の服飾の情報を提供し、とくにトラッド派から熱狂的な支持を受けていた。その辞書のような圧倒的な情報量は圧巻で、パリやロンドンのセレクトショップ、古着屋には、1960〜70年代の『MEN’S CLUB』が誇らしげに飾られていたりする。
1985年6月号の特集タイトルは「DRESSY’30S よみがえる 30年代」。「当時は昭和60年だから、30年前の昭和30年代を特集したのかな?」と思ったら違った。1930年代の欧米の紳士のスタイルを、この時代に巻頭特集として振り返っているのである。この頃は原宿あたりに古着屋が目立ち始め、リーバイスのヴィンテージの価値が(日本のみで)ようやく付けられるようになった時代である。その頃に30年代の特集をするというのは、異例中の異例で、世界中のファッショニスタが古本を血眼になって探しているというのも頷ける話だ。

パームビーチ、ドーヴィル、ビアリッツ、ナッソウの当時の世界4大リゾート地のスタイルをイラストと文章で解説している。
特集の扉ページでは、1930年代の代表的なスタイル、映画・音楽との関連性を “洒脱と浪漫の時代” として解説し、次の見開き(写真参照)では、高級リゾート地(パームビーチ、ドーヴィル、ビアリッツ、ナッソウ)とファッションの関連性を解説。中面の2色刷りのページでは、フレッド・アステア(※4)、クラーク・ゲーブル(※5)らの当時のファッションリーダーの装いを、日本のファッションイラストの第一人者である穂積和夫さん(※6)のイラストで紹介している。とにかく恐ろしいくらい文化レベルが高く、バブル前夜の日本の知識欲みたいなものを強く誌面から感じる。
※4 フレッド・アステア…1899年生まれの俳優。1930-50年代のハリウッド・ミュージカル映画の黄金期を代表する存在で、ウェルドレッサーとしても知られた。1987年没。
※5 クラーク・ゲーブル…1901年生まれ。アメリカの映画俳優で、第二次世界大戦前後の映画界を代表する俳優。1960年没。
※6 穂積和夫さん…1930年生まれ。日本のメンズファッションイラストレーターの第一人者。彼が描いたアイビーボーイはアイビーのアイコンとなった。2024年没。
アメリカ→DCへ鞍替えした『POPEYE』

1985年11月10日号の『POPEYE』の表紙。このソフトフォーカス感が素敵だ。
1976年以来、アメリカを中心とした様々なカルチャーを日本に紹介し、若者文化を牽引してきた『POPEYE(マガジンハウス)』。創刊から10年と少し経ったこの頃は、さすがにDCブランド・ブームを無視することはできず、ファッション特集のメインはDCブランドとなっている。1985年11月10日号の特集タイトルは「ケチ・ケチ・ポパイ」。当時のアルバイトの時給は600〜800円が主流で、多くの若者は定価だとDCブランドの服は手が届かないので、ファッション誌は定期的にバーゲンやチープシック特集を行っていたのだ。

1985年11月10日号の『POPEYE』の特集ページ。チープシックに決めるアイテムとして、タートルセーター、ポロニットを提案している。
特集のファッションページのクレジットには、今も第一線で活躍する山本康一郎さん(※7)の名前も。ソフトフォーカスのアンニュイなファッションフォトは、80年代のフランス映画のスクリーンから飛び出してきたような雰囲気。紹介されているアイテムは、ほとんどが1万円以下だ。
中面には「全国12都市激安店マップ」を9ページにわたって紹介。この時代の雑誌は全国もれなく読者を抱えていたので、全国の主要都市の情報を網羅しているのが当たり前だった。個人的に興味深かったのが「32万7000円で世界一周、信じられる?」という記事。LA→NY の移動はヒッチハイク(笑)という無茶な提案を含めた上の概算だが、当時はこれを読んで世界一周の旅に出た若者もいたのではないだろうか?
※7 山本康一郎さん…1961年生まれ。数々のファッション誌、ブランドのディレクションに携わる。2016年、18年にクリエイティブディレクターとしてADC賞を受賞。様々なブランドやアーティストと協業し、彼が「今、欲しい」と感じるアイテムを別注する[スタイリスト私物]も好評。
サブカル情報の宝庫だった『宝島』

1985年6月号の『宝島』。メインの情報は音楽だが、ファッションを特集した珍しい号。
1973年に音楽&カルチャー誌として植草甚一(※8)らが晶文社から創刊した『宝島』。創刊当初は英語読みの『ワンダーランド』として発行し、3号目に『宝島』に改名。1970〜80年代のサブカル文化の一翼を担った。1985年当時はバンドブームの牽引役として存在感を高めており、1985年6月号でも、「BOOWY(※9)」のベルリンでのレコーディング、辻仁成(※10)の「ECHOES」のメジャーデビューなどを伝えている。
「流行服通信」と題したファッション特集は、扉ページのデザイン、モデル選びからして強烈。「VIVA YOU(ビバ ユー)(※11)」「HYSTERIC GLAMOUR(ヒステリックグラマー)(※12) 」「OZON COMMUNITY(オゾンコミュニティ)(※13)」らDCの人気ブランドを使っているが、そのスタイリングはサイケデリックでとにかく派手。コントグループだった怪物ランド(※14)の赤星昇一郎をモデルとして使ったりもしている。また、本企画の大久保篤志さんのインタビュー(No.02 「あの人に聞く 1985年」スタイリスト 大久保篤志さんの場合)で紹介しているように、大久保さんのロングインタビューも収録している。
4冊の1985年の男性ファッション誌を読んで思ったのは、とにかくこの時代の日本は元気に溢れていたこと。もう一度こんな楽しい日本を作らなければならないし、みんなで一緒に作りましょう!