No.38 「あの人に聞く 1985年」スタイリスト 馬場圭介さんの場合
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イマに続く1985年の40のコト。
2025年で40周年を迎えたRAGTAG。その創業年である1985年当時のファッションについて知るために、このサイトではこれまでもその時代を知る何名もの方に登場いただきました。今回は、スタイリストとして長年活動を続ける馬場圭介さんに当時を振り返っていただきました。ご自身のファッションも長年UKスタイルを貫く馬場さんが、1985年頃のロンドンで受けた多大な影響とは。
interview & text : 武井幸久(HIGHVISION)
photo : TAWARA(magNese)

Profile
馬場圭介
1958年 熊本県生まれ。1986年、28歳でロンドンに渡り、現地でスタイリストの大久保篤志氏と出会い、30歳で帰国。大久保氏のスタイリストアシスタントとして働き、翌年独立。ミュージシャンや俳優、雑誌などのスタイリングで活躍。現在はスタイリスト業のほか、東京・千駄ヶ谷のショップ「COUNCIL FLAT 1」を共同運営中。
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「UKのすべて」を味わうためにロンドンへ

馬場圭介さんと言えば、スタイリストとしてさまざまなシーンで活躍する一方、多くのメディアでも自身のUKスタイルが取材されるなど、日本にUKのストリートファッションを浸透させた一人として知られています。現在はスタイリスト業の傍ら、東京・千駄ヶ谷でUK古着を数多く取り扱うショップ「カウンシル・フラット ワン」を共同運営し、時には店頭で店を訪れる人と気さくに会話しながら、その知識やセンスを若い世代にも伝えています。
「1985年って音楽で言えばどの辺だっけ? 俺がロンドンに行ったのは確か86年なんだけど、その頃はスミスとかが流行ってたな。あとマドンナとかか」 音楽カルチャー好きで、イベントではDJとしても稼働することの多い馬場さんとの取材は、そんな会話からスタート。馬場さんは28歳の時に渡英。ロンドンに行った理由は、「イギリスの音楽やファッションが好きだったから」というシンプルな理由だったそうです。

「行くきっかけになったのは(雑誌)『ポパイ』だね。当時そういう特集をよく見ていたから。あの頃はそんな感じでロンドンに来ている日本人は多かったよ。女性は主に音楽が目当てで、俺の場合は音楽もファッションもそうだし、街の全てを体感したかった。『ロンドンに住むのが目的』だったから。日本に古着を送る仕事もやってはいたけど、遊び半分……まあ、遊びかな(笑)。毎週決まった日にマーケットに行って、古着を探して日本に送って、夜はクラブに行く生活だったね」
ロンドンのクラブで先端のファッションにも出会う

当時馬場さんが暮らしていたのは、ロンドンの南の街のフラット(アパート)。その上のフロアには、当時ロンドンを拠点に[ビームス]のバイイングを行っていた夫妻も住んでいて、交流を深めていたそうです。馬場さんは当時ロンドンにいた日本人と一緒にいるだけでなく、どっぷりと現地のカルチャーシーンに入っていきます。
「当時のイギリスはサッチャー首相の時代で、割と混沌としていた時代かな。でもロンドンにいて危ない目に遭ったことはないし、危険な感じもなかったよ。街にはオシャレなヤツもいっぱいいたし、クラブシーンも盛り上がっていたんで、毎晩のように遊びに行ってた。当時のロンドンのクラブは面白くて、ジャン・ポール・ゴルチエなんかもわざわざパリから毎週のように来てた。盛り上がっていたのは、有名な『Taboo(タブー)』という店。もう当時の店は全部なくなっちゃったけどね」

馬場さんが夜の活動をしていたクラブには、当時のファッションデザイナーたちも多く訪れていたそうです。
「誰がクラブに来ていたかハッキリ覚えてないけど、当時のロンドンのファッションは面白かったよ。 [ハウスオブ ビューティ & カルチャー](1986年にジョン・ムーア(John Moore)によってロンドンで創業されたブティック兼デザインスタジオ)や、[ジュディ・ブレイム]、[クリストファーネメス]、[ワークス フォー フリーダム]とかさ。クラブに行けばそういうデザイナーと顔見知りになったりするんだよ」
そんな中、馬場さんがロンドン滞在中に最も影響を受けたと話すのが、ロンドン拠点のスタイリスト・クリエイティブ集団の「BUFFALO(バッファロー)」。「バッファロー」は、レイ・ペトリ氏を中心に結成され、当時のファッションカルチャーを牽引していた雑誌『The FACE』、『i-D』などを中心に活躍。独創的なスタイリングやビジュアライズによってファッション界に革命をもたらした存在として知られています。
日本のファッション業界にも強い影響を与えており、現在もその影響を公言しているスタイリストやデザイナーも数知れず。そのメンバーであるバリー・ケイマン氏などは[TAKEO KIKUCHI]のショーのスタイリングを手がけるなど、日本とも強い結びつきがありました。

「レイ・ペトリは来てなかったと思うけど、『バッファロー』のメンバーはよくクラブで会ってたね。今じゃ普通だけど、彼らのスタイリングはスーツにジャージを合わせたり、スポーツウェアや軍モノを使ったりして、かっこよかったよ。当時はそんなのなかったから。日本でスタイリストとして仕事をするようになった時も、あれを近いところで見れていたのはかなり大きいと思う」
東京のシーンでスタイリストとして活躍

馬場さんがロンドンに滞在していたのは約1年半。当時仕事でロンドンに来ていた、スタイリストの大久保篤志さんの仕事を手伝ったことがきっかけで、日本に帰国してすぐに大久保さんのアシスタントになったことはよく知られています。
「大久保さんが『お前、日本に戻ったら何するんだ。戻ったら俺のアシスタントに来いよ』と言ってくれたので、『行きまーす』って(笑)。1年くらいアシスタントをやって、すぐに独立するんだけど、その時に一緒にアシスタントをやっていたのが野口強だよ」
独立後の馬場さんは、すぐに俳優、そして歌手としても活躍していた本木雅弘さんのスタイリングを多く手がけるように。中でも1992年の紅白歌合戦に出場した本木さんの衣装で、コンドームのようなものを多数首元に巻いたスタイリングで物議を醸したことは伝説にもなっています。

「あれは……、俺も一緒に考えたのかな(笑)。ちょうどエイズが問題になっていた時期だったから。モックンとは気が合ったんだと思うけど、当時たくさん仕事をご一緒したね。ミュージシャンや俳優のスタイリングは、本人に似合うものを選ぶというのを第一に考えてやるんだけど、やっぱり本人がファッションに興味がある人とは仕事が続くよね。モックンもそうだし、フミヤ(藤井フミヤ)もそうだし、布袋(寅泰)さんもそうだけど」
帰国し、アシスタントを経た馬場さんは、すぐにスタイリストとして頭角を表し、ファッション業界で活躍。ミュージシャンを中心に多くの芸能人の方々のスタイリングも手掛けながら、ファッション誌やブランドのスタイリング、そしてご自身も頻繁に雑誌に取材を受ける存在にもなっていきました。
「80年代後半も90年代も、やっぱり夜はクラブに行っていたな。スタイリストとして営業活動なんてしたことないけど、当時は夜のクラブが“営業”の場だったかもしれない。ファッション業界の人や芸能人の人たちにもそこで知り合ったからね。今はそういう場所がなくなっちゃったよね」
「その場所に行く」ことが面白かった時代

現在も馬場さんご自身のファッションはUKスタイルを貫いています。
「若い頃はアメリカのものも着ていたけど、ずっとUKだね。スタイルを変えたいとも思わないし、変えられない。他に選択肢がないんだよ(笑)。ロンドンのファッションは、『サヴィルロウからパンクまで』というけど、やっぱりダンディというかジェントルマンなところがいいと思う。カルチャーとスタイルも密接しているよね。俺の場合はパンクもモッズもスキンヘッズも好き。でも日本ではイギリスのファッションがメインになったことはないんだよな。だいたいアメリカだから」

現在、馬場さんもいる「カウンシル フラット ワン」で取り扱うUK古着は、円安や世界的な古着ブームの影響を受けて、ヴィンテージを中心に価格も高騰中。
「仕入れも高くなってるよ。バンドTなんかは特に。でも時代とともに物理的にモノが少なくなっているんだから仕方ない。俺もヴィンテージの服が好きだけど、自分で買うのは革ジャンか軍モノばかり。でもコレクションはしていない。だって服なんて着るものじゃん?(笑)。自分で着ないもの集めたって仕方ないと思うけどな」


取材の最後に馬場さんに、「1985年頃の面白さ」についてお聞きしました。
「それは当時、ケータイもパソコンもなかったってことだと思うな。当時は『行かなきゃ誰にも会えない』世の中だったんだよ。だから何か面白いことないかな、と思って俺もクラブに行ってたし。約束してたって会えないとか普通だったから。今は今で便利なところはいいけどね。でも、だから当時は面白かったんじゃないかな」



